今読んでいる小説集「恋する男たち(朝日新聞社)」の中で見つけた。「たぶんあまりたくさんのものを持っていると、わからなくなってしまうんでしょうね」(湯本香樹実「マジック-フルート」より)。
熱いオフロに半分体を沈めて本を閉じて床に置いた。毎日自分にいいきかせている言葉だ。
自分の場合は少し情況が異なっている。自分は欲しいものを手に入れるために、がむしゃらになって「本当に大切なものの判断」ができなくなっていた。
あの頃の私が切望していたものは私の心が基準ではなくて世間の目が基準だった。
あの頃は社会で形作られたライフスタイルしか頭になかった。それを得るための努力もした。しかしもう直ぐ手に入るという手前で、自分が無理をしていると認めた。そのままそのステイタスを保持するか、投げ捨てて自由の身になるか、私は後者を選んだ。
たくさんのものを捨ててみると、見えなかったものが見えてきた。
Qちゃんへの社会的ステイタスへの望みを取り除いて「飾りのない裸のQちゃん」を虫眼鏡で観察する時間ができた。するとまっ裸のQちゃんの存在が大きく膨らんだ。
この人は結婚という呪文でただ脱け殻のように私と暮らしているのではない。「伴侶への愛情」を基盤として暮らしている。
共同生活は容易くはない。維持するための責任、努力、挑戦、向上心を学ばなければならない。
この人は私との共同生活の中で一人もくもくとこのスキルを蓄積してきた。彼の足元には及ばないが私もそうだった。これからもそうしていくだろう。
同じ屋根の下で暮らしてから既に10年は過ぎてからの発見だった。
愛着心を捨てる努力をしている今の暮らしを始てみて空虚感が少し薄れてきた。
濡れた体の雫をタオルで拭きとって、蒸気の上がる風呂から出る。すこしダブダブのジーンズにポカポカした足をいれて、洗いたての縦しまのシャツに腕を通した。 蒸気で曇った洗面所の鏡をタオルでキュッキュッと拭き、毛先が少し濡れている短い髪を黒いゴムで束ねた。
最近は天気のせいにして家に篭りがち。頭が鈍感になっていてどす黒い塊が右耳の後ろにベットリとこびりついている。 透明で清々しい酸素が吸いたい、外の冷たい空気を吸いにいこう。
Qちゃんを散歩に誘うが、風邪気味だと見事に断わられる。
病気の割にはテレビの映画を見て笑っている。仮病じゃないの、それとも下手な言い訳? 家にいるとムシャクシャする。そういって家のドアをバタンと閉めてアパートを出た。
散歩に出掛ける、遠くでかもめが「アッー、アッー」と鳴いている。オレゴン海岸までかなりの距離があるのに、餌を求めてこのあたりまで飛んでくるのだ。父が住む青森の海辺に屯するかもめを想い出す。2年前になる。Qちゃんと別居をしていた「あの時」だ。父は静かに窓辺からかもめを眺めて暮らしているのだろうか。あの時と同じように。海辺ではない、買物客で賑わうモールの駐車場で私も一人かもめを見つめて今日という1日を生きている。金沢での歳月、姉は東京、神奈川へ、私はアメリカへ。 父は母を連れて海辺のある暮らし故郷青森へ飛んだ、このかもめのように帰るべき場所へ帰っていった。一人になると時々「家族」を思う。老いも若いも一緒に暮らす大家族だ。おじいちゃん、おばあちゃん、嫁さん、兄さん、孫達がワーワー走り回る「家族」だ。自分には全く縁のない暮らしだった、これからもありえない暮らしだ。あの渡り鳥達は「家族」という群れで行動する、心強いだろうな彼らの人生は。Qちゃんとこの先二人だけの生活、心強いとはいえない。 だけどそうして暮らしていくのだろうな、流れるままに。豚肉とセロリとトマトの炒めもの
マッシュポテト
中華サラダ
ブロッコリー
レントル豆ピラフ
家に帰るとQちゃんがいた。 頭を冷やした私を何もなかったようにQちゃんスマイルで迎え入れてくれる人だ。
Qちゃんがいる場所へ帰る、私を待つ人がいる場所へ。 それでいいじゃないか、それだけでもいいじゃないか。 何度も自分に言い聞かせた。