社交家は独身、既婚者に関係なく絶えず人と時間を過ごす。 Qちゃんがいい例だ。
大学時代のQちゃんは毎晩毎晩あちらのお宅におじゃまします、こちらのお宅におじゃまします。 彼女の私をついでに連れていくのはいいが、会話は全て英語。内容は政治、歴史、文化、私の知識ではついていけない。 ニコニコスマイルも2時間が限界。 彼女をしていた頃はQちゃんの社交パーティのお誘いには「食べ物を持ち寄るポットラックパーティ」のみ同伴すると決めた。
Qちゃんは「家に絶え間なく人が出這入りする環境」で育った。 じっとしていない人間好きなラニママを見ればうなずける。それだからQちゃんは人付き合い、人をもてなすのが非常に自然で板についている。 ラニママがそう仕付けたのだろう。
私は社交家ではない。私が育った浜田家では「人を家に招くこと」は「その客を最善にもてなすこと」であった。母は台所で世話しくお茶を準備し、 和菓子を皿に載せ、 それをお盆にのせてつくり笑顔で客室に運ぶのだ。その記憶が残っていたのだ。
そんな私とQちゃんが一つ屋根の下で暮らすことになった。 Qちゃんは家に人を招待することを削減した。必ず「私の許可がないと客は来れない」生活となってしまった。私がそうしたのだ。
しかしある時気ずいた。アメリカ人、少なくともQちゃんの友達は、実にカジュアルであることに。
家に来ても台所で立ったままオレンジジュースを片手に仕事の話。「 ソファーに座ってユックリして下さい」とホステスの私が気をきかしても「いえ、結構です。すぐ行きますから」そういってビジネスの話に戻る。
「アーモンドクッキーを焼いたのでお食べになりますか」というと「私はダイエット中で食べられないけど、 娘に3枚ほど持っていってもいいか」とくる。
さすがアメリカ人。自分の意見をしっかりとホスト/ホステスに主張する。つまり「いちいち一から十まで世話をしなくてもいい客」なのだ。
それから私の「ホスト/ホステス」という感念が少しかわった。「自分のまま=我が侭」で客を迎える。
Qちゃんの客は私のゲストではない。ゆえに「夫婦同伴」を客は望んでいないはずだ。「妻として同伴しなくてはいけない」という緊迫した考えはその時点でもう消えた。
Qちゃんの客がいようとも一人でパソコンに向かうし、 一人で昼寝もするし、 電話だってする。ここは私の家だもん、どうして今まで客に気を使っていたのだろうか。
強気になったというか、態度が大きくなったというか、恥らいをなくしたというか、 どうでもいいが「私には私の権利がある」という自己主張。客がしているんだから私だってしてやるって意気込だ。
家に人を招待することは滅多にないが、夫婦同伴で招待されることは「やめてくれ!」というほどある。人付き合いの苦手な私には「どう断るか」が悩みのたねである。
オレゴンに知人が多いQちゃん「久し振りだね」から会話が始まり「じゃ今度は『未だ見ぬ奥さん』にぜひ会いたい」で会話が終る。そして後日電話、メール、手紙で招待状が届くのだ。
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本当だって! 本当にこの夜は仕事が遅番なんだって! 嘘じゃないよ、 ほら私のスケジュール表に書いてあるでしょう!
今晩のご飯はスペルト小麦でピザを焼くわよ。 Qちゃん、あなたしか食べないジャックチーズが残ってるのよ、冷蔵庫に。あれ、そろそろ使わないとカビが生えてくるよ。
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わかめサラダ
自家製ピザの生地よりやっぱりピザ屋のほうが断然美味しいね。クリスピーピザなら成功する自信あるんだけど、今度挑戦してみるね。