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2008年8月27日水曜日

12年振り、アイダホ州ルイストンに帰ってみます-- (12) 想い出の場所

ルイストンでの生活は私を随分成長させた。

何も知らない少女から女の初期段階まで過ごした場所だ。

15年前の春私はこのルイストンの土に「自分という種」を撒いたのだと思う。ルイストン。大学は秋模様。これからもずっと、私がいなくなってもこの紅葉はキャンパスを敷き詰める。ルイストンの秋の夕暮れ、日が落ちるのは「この3日間の旅」が終りを告げるように早い。カメラのフラッシュライトをたいて撮影。 小学校のベンチに座る勉強熊。「偉いのね」と褒める私。だけれど勉強熊さんには汚れた裸足で大切な教科書を踏んでほしくない。子供達には真似をさせたくない。

私を包み込んで温めてくれた場所。ホストファミリー。

私が理想とするアメリカでの今後の暮らし方。それはホストファミリーになって縁ある学生さんに小さなオアシスを提供したい。

きっかけを与えたの当時18歳の私を迎え入れてくれたダナ ハスクルおばあちゃんの家。

私がブログに記録する「ななさん流アメリカ料理」はこの家で毎晩食べたダナおばちゃんのアメリカ手料理が原点だ。

愉快で優しい、だけれどケジメをつけて留学生のホストマザーの役割を20年以上もはたしていたダナおばあちゃん。

私がルイストンをおとずれた時はダナはシアトルの息子夫婦の家に引越しをしたという風の便りが微かに聞こえてきた。

残念だ。

この玄関をダナおばちゃんに「いってらっしゃい!」と元気に見送られて毎朝学校に自転車に乗って通った。Qちゃんと共にこの扉をあけて「おや! 結婚したのかい!よかったね」とダナおばちゃんに抱き締めて喜んでほしかった。

青いスーツケース一つでアメリカに乗り出した18歳の私。その成長を一番認めてくれるのはもうこの家には居ないダナだっただろう。

ダナおばあちゃんの家を出て一人アパート暮らしを始めた19歳の私。今でも覚えているオーナーのラルフおじいさん。 白いヒゲを生やした小太りのおじいさん。カウボーイハットをかぶってブーツを履いていた印象が忘れられない。あっ!まだ健在だ! Qちゃん、見て見て! Qちゃんもこのアパートによく通ってくれました。

4つの部屋があるアパートメント。私は写真左下の地下に住んでいました。このアパートに住んでいるとき、まだカリフォルニアの彼と手紙と電話で遠距離恋愛をしてた。Qちゃんに嫌な想いをさせてました。

あの頃はズルイ学生でした。 体の関係がないというのを盾にしてずっとサンディエゴの彼と「声と文字」で繋がってました。

だからこんな女に「結婚を前提に付き合ってくれ」とはQちゃんは言わなかった。

過去は過去、現在は未来の延長線。

大学時代のアルバイトは2つ。日本人留学生に英語を教えるアルバイトと家政婦さんのアルバイト。

「がさつな私」と「天使のような省子さん」と「聡明な明美ちゃん」の大学3人娘がこのマンションに住んでいた島根大学の名誉教授の安達教授の家政婦さん(らしきこと)をしてました。先生の食事の買物や、書斎の掃除、朝食と夕食の支度。この頃から「自分は家庭できる主婦延長線の仕事をしたい」と思いました。

語学を教えながらホームステイをしたいのも大学時代のこんなアルバイト経験が土台となっています。

安達教授は日本国宝に選抜された農業学者でいつも本を書いておりました。 とても温厚で優しい方で掃除も洗濯も自分でおやりになっていました。

そして時には書斎から出てきて「少し外の空気を吸ってきます」とキッチンで夕食の支度をしている私に優しく告げると、ルイストンの紅葉の道を一人で散歩に出掛けるのです。人の生き方は年を重ねるにつれてその人の所属する境遇や言葉や態度や行動に表れるものだと、安達教授を見て実感しとても尊敬しておりました。

自分が先生のお年になったら人から尊敬されなくてもいいが毒のない素朴なおばあちゃんになっていたいものです。この円を描いた坂道カーブを下りるとルイストンのダウンタウンへ向かう。ウィンディー叔母さんが勤めるYWCA。

アメリカで免許を取った私。

最初の車はニッサンスタンザでした。

故障するとこの修理屋さんに連れてきてよく直してもらったものです。シアトルまで遠出するときはいつも車の調子を念入りに点検してもらいました。

朝早いけどお世話になったメカニックさんはいるかしら。 車でウロウロしていると中に人影が。あっ! いた!いた!

「いや~!早朝車がウロウロしているからどうしたのかなと思って出てきてみたら! こりゃ、驚いた! もちろん、覚えているよ!」とメカニックのピートさんが仕事場所から顔を出してきたではありませんか!相棒のメカニックのデイブさんはまだ出勤していない様子。 「いあ~、 残念だな。 デイブに君達が会いに来てくれたことを報告しておくよ! 有難う!会えて嬉しいよ!」

想い出の街ルイストンで最後に会った人は、車社会アメリカで私の車の主治医だったピートさん(とデイブさん)でした。

「他に行きたいところはあるかい? 」と車に戻ったQちゃんがいう。

ピートさんにも会えたんだから、もう充分。 悔いはないわ。

「そうか。じゃ、ルイストンともしばらくさよならだ」Qちゃんが車のエンジンをかける。スネーク川を隔ててかかる橋。 この橋を渡ればアイダホ州からワシントン州に入る。さよなら、ルイストン。

Qちゃんサーモンとななサーモンが乗った車が静かにスネーク川にかかる橋を渡っていく。 二人が出逢った街ルイストンを後にして。

2008年8月12日火曜日

12年振り、アイダホ州ルイストンに帰ってみます-- (11)ルイストン別れの朝

バハイ宗教の集いが終り、Qちゃんとウェンディー叔母さんは昔いつもしていたように遅くまで話をしていた。 鍵を掛ける伯父さんの足が疲れのせいか少し重そうだ。私とレット伯父さんは二人をキッチンに残して眠りについた。月曜日が幕を開けた。ルイストン最後の朝だ。伯父さんと叔母さんともまたしばらく会えないだろう。猫ちゃんともさよならだ。この週末旅行を過ごした地下のゲストルーム。昔はQちゃんのお部屋だった空間。彼のガールフレンドだった髪の長い私は何度この部屋に足を運びこのベットに座ったことだろう。この階段を上がったり下がったり。懐かしいような恥ずかしいような気持がくすぐったく交差する。階段を上がると難しい本が並ぶ本棚に伯父さんの甥と姪の写真が置かれている。青年初期のQちゃんと兄のデービット、そして弟ジェファーと妹ジェアタの姿が写真のフレームの中で笑っている。ウェンディー叔母さんの甥のレインさん。 アメリカのコメディードラマ「The Office」の味の濃いドウェイン役で活躍している個性派俳優です。「The Office」のサイトはこちら!

3年前カリフォルニア旅行でレインさんの撮影現場を拝見させて頂ました。 奥さんは作家として活躍しております。

テレビのキャラクターとは大違いのレインさん。お宅に足を運んだ時は息子さんに野菜スープを食べさせている大変子煩悩な新米パパでした。レインさんのプロフィールはこちら!

カチャカチャとキッチンから食器の音がする。 眩しい朝の光とともにジャスミンティーのにおいが漂う。

レット伯父さんだ。

レット伯父さんの朝は早い。 朝一番で心理学の授業があるのだろう。

3日前12年振りにこの家に足をいれて最初に目にしたのは前と同じひんやりとした観用植物とウェンディ叔母さんのアートで敷き詰められ静かな空間。

そしてテーブルにきちんと重ねてある山積みのレポート。ディスナー教授の授業を受講する生徒達のものだ。大学は調度中間試験ウィークだったのだ。

伯父さんは私を見つけるとレトロなティーポットで沸かしたジャスミンティーを「飲みますか」とあの優しくおっとりとした口調でいった。

伯父さんは少しの間だけ私と話をしてキッチンの奥の自分の書斎に姿を消した。

その頃にはQちゃんも目を覚まし朝のキッチンで日本茶を飲みながらルイストンからオレゴン出航の準備を始めていた。

しばらくして採点をした学生達のレポートを左手に抱えたおじさんが書斎から出てきた。

「時間だ。もう仕事にいかないといけない。12年振りに会えてとても嬉しいよ。 クデュースといっしょにまたいつでも遠慮なくルイストンに遊びにおいで。部屋はいつでもあるからね」

背の高いレット伯父さんの腰に抱き付いて私は伯父さんとの12年振りの再会に終りを告げた。

レット伯父さんは黒いベレー帽を被ると家を出ていった。

私とQちゃんが伯父さんを見送ろうと家の外に出ると伯父さんのベージュのコートを着た後ろ姿がアイダホルイストンの秋紅葉に同化されていた。「レットおじさんは20年以上もこうして家と大学キャンパスを往復して歩いて通っているんだ」Qちゃんがしみじみと一人ごとのように呟いている。「20年以上って歳月は容易なようだけれど『commitment』がないとできないよな。」「そうだね」と私が付け加える。二人でレット伯父さんの後ろ姿が消えてなくなるまで黙っていた。

ウェンディー叔母さんは夜型人間だ。 まだ朝の8時前。 スヤスヤ眠っていることだろう。 Qちゃんと私は置き手紙を台所のテーブルに置いてディスナー家を去ることにした。

ルイストンを朝出れば夕方前にはオレゴンポートランドに着くだろう。二人は荷物を車の中に詰め込んで伯父さんと叔母さんの家を後にした。

この想い出旅行には目的があった。

それは18歳だった無鉄砲な日本人留学生だった私を支えてくれルイストンの友人達に再会をして「自分の成長」を確かめることだ。

これほど迄にアメリカの大地に恋し、この地で会った男と生涯を共にすることを決め、更にはこの大地で生涯を終えようとさえ考えるようになったのはルイストンが「原点」になっている。

「原点」が悪ければとっくの昔に日本に泣き寝入りをして帰っていただろう。

何度も書くが私は「人」には恵まれてきた。

言葉を替えると「ルイストンでの人との出会い」が後天的「私の國アメリカ」と仰ぐようになった「原点」だったような気がしてならない。

この理屈を兼ねて私は自分が影響を受けた人々、その人達と戯れた建物をルイストンを去る前に12年振りにもう1度この目に収めておきたかったのだ。

Qちゃんにしてみても馴染み深い人々と建物だ。快く同意してくれた。

2008年3月20日木曜日

12年振り、アイダホ州ルイストンに帰ってみます-- (10)伯父さんと叔母さん夫婦

ルイストン2日目の朝を迎えた。昨日はロスとオータムさんに逢えて美味しいイラニアン料理も食べて恒例のルイストンヒルの夜景デートをして満足な夜を過ごせた。

今日は日曜日。週末をヤキマで過ごしていた伯父さんと叔母さんが午後には帰ってくる。二人に逢うのは12年振りだ。

伯父さんと叔母さんはいつも動物を飼っている。あの頃は中学生だった息子のランダムが奇妙な生き物を飼っていた。イグアナがいたときもあったし、ペット用の小型黒豚スパイクが住んでいたこともあった。(去年の感謝祭で12年振りにポートランドでランダムと再会した。 奥さんのマリーさんと結婚をしてすっかり大人に成長していた。 )

この家にはいつも猫が住んでいる。もう亡くなってしまったがファウロという黒猫が住んでいて、黒豚スパイクがいつもグーグーと鼻を鳴らしてファウロの餌をむさぼっていたのを覚えている。そこで「伯父さん夫婦のペット情況」が途切れている。私もQちゃんも大学を卒業してアイダホを離れたからだ。

ファウロが亡くなったと聞いたのは数年前だ。だが、ずっと昔のように思える。

この家に足を1歩入れた瞬間12年前の「あの時代」が鮮明に戻った。叔母さん独特のインテリ家具や、テーブルの上でゲストが退屈凌ぎに遊ぶユニークな玩具、家中に溢れる観用植物、沢山の本や CD が静で誰もいない家の中に並んでいる。全てが「あの時のまま」だ。なのにファウロの姿は色焦て想い出せない。

新しい猫が住んでいたからだろうか。

懐かしい正面玄関の扉を開けると、昔ファウロがしてくれたように、白黒の猫がミャーと小さい声で出迎えてくれた。新しい猫が家族になっていた。

伯父さんからQちゃんと私へ「猫の餌時間と量」が書かれたメモがテーブルに残されてあった。

このキッチンテーブルに伯父さん夫婦はいつもこうしてメモを残してコミニケーションをはかるのだ。 私達夫婦もこの伯父さん夫婦を「真似て」メモを残してコミニケーションをはかっているのかもしれない。伯父さんの円みを帯びた癖のある文字。伯父さんスタイルの主語の「I」がいつも小文字の「i」になっている
ところ。 この家は12年前に去った時のままのようで心がホットした。ペー君もこの猫と仲良しになった。温かい秋の朝の光を二人で浴びている。慣れ慣れしいペー君に少し嫌そうな顔をしている猫。

伯父さんと叔母さんが帰ってくるまでに時間がある。Qちゃんと二人で最後の朝をゆっくりと過ごしたい。想い出深い伯父さんと叔母さんのキッチンでお茶好きな伯父さんのジャスミンティーを沸かして、彼がしているように普段より多めの砂糖を入れて飲んだ。

12年前の昔と今も変わらない台所。変わったといえば冷蔵庫に貼ってある「家族の写真」が増えているくらいだ。「それにしても沢山の親戚が加わったわね」と知らない人の写真を見つけてはQちゃんに説明してもらう。 12年前に私もこの人達の「知らない遠くの親戚」になったのだ。 不思議な感じ。

伯父さんと叔母さんが居ないこの家でQちゃんといっしょにゆっくりとした朝ご飯を食べる。 15年前の大学生の頃と同じだ。

伯父さんと叔母さんが仕事で出掛けた後の誰もいないこの台所で、そしてあの時と同じテーブルで、大学生だった二人はいつもこんな風に「ランチを兼ねた遅い朝食」を済ませ午後からの授業を受けるために大学へ向かうのだ。長い歴史のようだが、まるで昨日のことのように覚えている。 (この想い出話は "Topics" の 「NANAってどんな人?」キャタゴリーの "2007年9月5日「タイカレー」"を読んで下さい。)

伯父さんと叔母さんが帰るまでに寿司を作って待っていたい。あの頃の私は特別な日があるとこの台所カウンターに立ってツナマヨの太巻をよく作った。

寿司を作る私の隣でQちゃんと伯父さんは御喋りをする。難しい学問的な話題、スポーツの話、ルイストンの街の話、Qちゃんは伯父さんと話すのが大好きだった。伯父さんはいつも私が立つカウンターに笑顔でそっとお茶を置いてくれた。

伯父さんのホスト振りはQちゃんのものよりも遥か上だ。しっかりと相手を観察して何が必要かを見極める人だ。

Qちゃんは話に夢中で1度も私を気に止めてくれなかった。あの時のQちゃんはとても無神経な人だったように思う。当時の私は「将来を真剣に考える程に値しない女」だったからだろうか。

卒業間近に伯父さんがQちゃんに云ったことがあったそうだ。どんな言葉だったか忘れたが「女性とは責任の取れる行動をしなさい」という内容だったと私の脳裏に残っている。4年間私とQちゃんの関係を間接的に観察していた伯父さんの「この言葉」はQちゃんの心に何かを訴えたのだろうか。

卒業後しばらくしてからの突然の事だ。 既に決まっていたニューヨークのニュースクール大学院を翌年に延期してQちゃんは2つの大きなバックを肩から抱えて湿気でムンムンしたニューオリンズの空港に立っていた。

惨酷だが私は嬉しくはなかった。4年間大好きだったQちゃんと奇麗さっぱり縁を切って新しい暮らしを始めたかった。あの頃の私は若さで恐いものはなかった。Qちゃんがいなくてもアメリカのどこかで生きていけるような気がした。Qちゃんが4年間私に云い続けたように「Qちゃんは大学での恋人。それ以上でも、それ以下でもない」と彼を過去形にしていく強さがあった。

そういう可愛くない強がりの女にしたのは誰だ。Qちゃん本人だっただろう。

Qちゃんは私が一人アメリカでどこまでできるのか試していたのではないか。最後の最後まで突き放しておいて私が彼の言葉通りに離れた時を見計らって、 今さら「一緒になろう」では話が良過ぎではないか。私はそこで簡単に折れる「都合のいい女」ではなかったはずだ。

そんな二人が12年振りに一緒になってこの場所に戻って来ている。

「人生は見えないものだが、運命はもう定められている。」

人間は「その法則」を知らないだけで、いかに「自分が人生を開拓している」と偉ぶっていても実は生まれた時からもう定められている見えない運命の舞台上で「その選択をする」ように逆に自分が見えない糸で操られている人形なのではないか。

ここ数年一人でそう私は悟るようになった。「一人よがりの悟り」だ。しかし「今を生きる自分の理」になぜだかかなっているような気がするのだ。

テーブルの斜め前に何も知らず幸せそうに座るQちゃんを見つめながら一人そう考えていた。

私はQちゃんの人生を狂わせたのか? 大学院行きの切符を破らせたのは、誰でもなく自分だったのではないか。このことが悔やまれてならないことが幾度もある。

あの時彼が誘うままにニューヨークで一緒に暮していれば二人はどうなっていたのだろう。そう想うこともある。 大学院行きの機会を無駄にして何でもない女との結婚を選択するのもまたQちゃんの運命だったのかもしれない。彼の宿命もまたこうなるようになっていたのだろう、そう信じよう。成るようになった故のことなのだから、これでいいのだ。

あの時の私のプライドが「一緒になろう」という彼を許さなかった。腹いせか? 本当にあの時はもうQちゃんと結婚はしたくなくなっていた。

周りの友人は大好きな人と結ばれて永住権までも取れるのだから絶好の機会だと励した。夢が実現するチャンスが目の前にあった。本当にそうだった。けれど私のプライドがそうさせなかった。変な所で私は「馬鹿」が2つ付くほどの頑固者だったようだ。

Qちゃんは何も知らずに新聞を読んでいる。この姿もこの先変わることはないだろう。

私が死んだらQちゃんはどうしているかな。 Qちゃんがいない暮らしを想像するほど恐ろしいことはない。そうなった自分が恐くなることがある。Qちゃんが私を大切にしているのは確だし、 Qちゃんを大切に思う自分も確だ。運命はもう決まっているのだから「それ」が来るまで楽しめばいいのだ。

お茶好きなQちゃん、美味しいお茶を飲んで気分も段々ぽっかぽっかとしてきたようだ。日曜日のルイストンも晴れて好調。寿司ねたの買物をする前にドライブをすることにした。

ルイストンのメインロード21st street。このストリートには大手モールが立ち並んでいた。ここはかなり変わった。これからもどんどんショッピングモール街になっていくのが予想された。あの何もかも平和だった街ルイストンも変わりつつある、哀しいような、嬉しいような複雑な心境だ。ズンズンと21st street を上っていくとオーチャードに出た。

懐かしい。ここオーチャード周辺は変わりはないようだ。私がアメリカ人4人と初めて共同生活をしたのもこのオーチャードだった。Qちゃんがバイトをしていたドミノピザがまだ立っている。「あの背の低い眼鏡をかけたマネージャーさん未だ働いているかな」二人車中で想い出話に花を咲かせた。

オーチャードの長閑な住宅が立並ぶ静な田舎道を通り過ぎると、莫大な自然との対面だ。車を止めて「日曜日のある牧場」の写真を取る。「Qちゃん、こんな暮らしをしている人もいるんだね」とカメラを握った私。何もいわないけど、Qちゃんいつもの優しい瞳で私を見ている。「ここにいる牧場の馬は何を考えて暮らしているのかな。仕合わせなのかな。心配事なんてないのかな。ねえ、Qちゃんどう思う?」何もいわないQちゃん、顔は優しい顔のまま。 こんな時のQちゃんは話を聞いてない。この道の向うは何があるのかな。行ってみたいけど「時間のロス」のようで行かない。人生もそうじゃない? やってみたいけど「時間のロス」のようでやらない。それは私のただの言い訳か?Qちゃん、こんな世界もあるんだね。世界のこと知らな過ぎるな私。なによ、急に車を止めて。Qちゃん、この景色のどこが特別なの? 証明してよカメラを通して。「これスウェットで使う草じゃないかな? 」考え込むQちゃん。夫婦っておかしいね。だってさ夫婦でも興味のあることは全く別だもん。

私が10分前に見た牧場の馬を特別だと思ってカメラを握るのにQちゃんは知らん顔。Qちゃんが興奮して私からカメラを奪って「このカラカラの草」の写真を撮るためにシャッターを押す。Qちゃんには特別なこと、私は全然関心が沸かない。お互い様ね、夫婦って。

そろそろスーパーに行って寿司のネタを買いにいかないと。Qちゃんと二人でルンルンと買物へ!

家に着いたのが午後1時半前。伯父さんと叔母さんは4時頃に帰ってくる。7時からロス宅でバハイ教の集い。集いの前はポットラックディナーだと聞いている。折角だから私も参加しようっと。

電子レンジの時計を見ながら寿司の準備を始める。懐かしいな、ここで寿司を作るのは。伯父さん、叔母さん、喜んでくれるといいな。伯父さん、叔母さん、ツナマヨ太巻は卒業しました。 今回はサーモンロール、鰻ロール、稲荷、カリフォルニアロール、鮪の握り、鉄火巻、かっぱ巻、お新香巻で12年振りの再会です。若芽と葱の味噌汁も待ってます。

寿司を作ったらどっと疲れが出てきた。少し昼寝をしようと地下にあるQちゃんのベットで横になる。

伯父さんと叔母さんが帰って来たみたい。叔母さんの懐かしいソフトな甲高い声がする。声と一緒に台所の裏口のドアが開いて伯父さんと叔母さんの足音が天井に響いた。急いで髪を整えて階段を上がると、伯父さんと叔母さんがいた。 レット伯父さんとウィンディ叔母さん御夫婦。変わりないな、あの時のままのようだけど。レット伯父さん実はハーバードー大学で心理学の博士号をとった頭のとても良い人なのだ。心理学専攻をした人は知っている今は亡きローレンス・コールバーグ心理学者の助手の経験をしたことがある人なんです。伯父さんはとっても穏やかな教授でした。私も生徒の一人でした。成績は確かB+でした。私が家に来て伯父さんをDr. Dissner (ディスナー博士)と呼ぶと「ここは大学じゃないからレットでいいよ」という気さくな人柄です。 Qちゃんと結婚してから「さあ、これからは僕は君の家族だよ。博士ではなくて伯父さんだ。そう呼んでくれるだろう?」と国際電話で結婚祝いの言葉を頂いた。

伯父さんをUncle Rhett (レット伯父さん)と呼ぶように努力したのだけれど、どうしてもRhett(レット)がUncle Rat (ラット=ドブ鼠)になってしまう。意識すればする程「Uncle Rat (ドブ鼠伯父さん)」と呼んでしまう。だから伯父さんの声を電話で聞くとつい無難な Dr. Dissner と口から出てくる。

ドブ鼠伯父さんと呼ぶのは、呼ばれる本人より、呼ぶ私の方が申し訳ない。ある日伯父さんから電話があった時に勇気を出して自分の旨を伝えることにした。

「長年教授と生徒という関係だったので、今直ぐラット伯父さんと呼ぶには不自然でどうもしっくりいかないんです。私の中では今でもあなたはDr. Dissner でラット伯父さんではないようです」と言い訳染みたことを受話器で伝えると「ははははは、君は面白いね。けど正直に云ってくれて感謝するよ。君の好きなように呼んでくれ」と伯父さんは云った。今でも伯父さんのことをDr. Dissner (ディスナー博士)と呼んでいる。

ヤキマから4時間のドライブをした伯父さんと叔母さん。お腹が空いているだろう。二人に寿司を用意してあるというと大喜びをしてくれた。テーブルセットをする伯父さん。私がずっと昔日本から買ってきた九谷焼きの小皿を並べている。寿司につける醤油皿にするのだ。 それにこのパンダの箸、昔もこの箸で寿司を食べていた!この空間は昔のままだ。伯父さんのホスト振りも叔母さんのホステス振りも。

伯父さんも叔母さんも見ていて気持ちがいいほどに寿司を食べてくれた。残りは明日の仕事のランチに持って行くといい残して7時に始まる今夜のバハイ宗教の集いの準備を始めた。

ポットラックの御馳走はKFCでフライドチキンを買ってロスとオータムさん宅へ向かった。家に着くと昨日と同じ幸せそうな二人が出迎えてくれた。すでに他のバハイ家族やメンバーが温かい居間で寛いでいた。「はいこれ、フライドチキン。スパイシーとレギュラー両方にしたわ」とウインディ叔母さんが今夜のホストのロスにいう。3人で逢うのは12年振り。Qちゃんが大好きなウインディ叔母さんと生涯の親友ロス。私がQちゃんと離婚をするか迷ったあの時は太平洋を超えてメールや電話で励ましてくれた叔母さんと伯父さん、それにロス。 大学時代の二人、夫婦になってからの二人、そして私とQちゃんが乗り越えたあの辛い時期を知る「彼ら」。私とQちゃんが肩を並べて今こうして「彼ら」と再会できたことを心から喜んでくれているのは誰でもない「彼ら」かもしれない。「皆さんお腹を空かせているようだ。さあ、ポットラックディナーを始めましょう」ロスの誘導されるままに子供も大人も皿を片手に持ちよった御馳走を皿の上に奇麗にのせていく。

食事の後はバハイ宗教の祈り、教え、会談で時が流れていく。写真撮影は宗教を尊厳する理由であえてしていない。

子供に交じって私はオータムさんが焼いた大きくて柔らかいチョコレートクッキーを3枚も摘んでムシャムシャと食べた。

アメリカ人の焼くクッキーはどうしてこんなに柔らかくて美味しのか何時も疑問に思う。そういう度にQちゃんは「また始まった!いい加減に僕の言葉を聞きなさい」というような呆れ顔で「べイキングはレシピに従って作れば"NANAでも"誰でも美味しくで出来る簡単な料理なんだ。NANAはレシピを無視するから駄目なんだよ!」と論理的に私の「ずぼらさ」を攻撃するQちゃん。 全くその通りで返す言葉がない。

クッキーを食べたのに、テーブルに座っているバナナクリームパイが誘惑の視線を投げかけている。

バナナクリームパイを初めて食べてみた。これが私好みの生クリームにカスタードクリームがたっぷりでとても美味しかった。パイは余り好きではないが「バナナクリームパイは違う」と私の脳にこれからは登録しておくことにした。

バハイ教の集いを終えて伯父さんと叔母さんと私達夫婦は家に戻った。キッチンでお茶を飲んで、家族の話、仕事の話、ルイストンの話、大学の話、12年分のライフ情況をアップデイトした。

伯父さんと叔母さんはペー君を見ると喜んだ。伯父さんがキッチンの奥の書斎へ行ってゴリラの雌を連れてきた。叔母さんから伯父さんへのプレゼントだったこのゴリラちゃん。セクシーなパンツをはいて贈られたそうだ。

ウェンディー叔母さんはアーティスト一家の生まれで彼女の創造力は実に面白くユニークだ。 彼女の趣味のランプ作りはトースターランプを先頭にどこで調達したのか不明だが美容院のパーマの機械がスタンドランプに生まれ変わったり、なんでもかんでも「あれれ?」と思うものがアンティークに早変わり。この家は「不思議館」のようで見るものに興味をそそられる場所でもあるのだ。(大人は台所でお話、子供達は象の木彫りでユラユラ遊んでる。)(ペー君、夜ももう遅いわよ。そろそろ寝る時間ですよ。)

伯父さんは明日の朝の授業の為寝室に入っていった。叔母さんは夜型人間で今でも夜中までテレビを見たり、読書をしたりとライフスタイルは変わってないようだ。Qちゃんがこの家で居候をしていた頃は二人で一緒にそうして過ごしていた。 私はQちゃんと叔母さんを残してベットに身を任せることにした。あらら、子供達も遊び疲れたのね。 おやすみなさい。

地下への階段を下りてQちゃんのベットに横になった。 明日はルイストンと別れる日だ。睡魔に包まれるのに時間は掛からなかった。

2008年2月6日水曜日

12年振り、アイダホ州ルイストンに帰ってみます-- (9) ロスがお父さんになりました。

ルイストンに帰ると会わなければいけない人、Russ Maxcy。

ロスはQちゃんの世界最愛の友達。 21年前に二人で5ヵ月アフリカ ケニアの大地を歩き、ラップウェイでは6ヵ月の共同生活、アイダホの大学では1年ほどルームメイト。毎晩絶えることなく広いアパートから笑いが聞こえた。

ロスはQちゃんにとって大切な人。「私とロスとどちらと暮らしたい?」と意地悪な問題を出すと、 真剣に頭をひねって考える。 それほどロスはQちゃんにとって価値のある人物なのだ。

ロスを嫌う人物がこの社会に存在するのかというほど彼は平和主義、 温厚、親切、彼こそ正真正銘の癒し系人物である。Qちゃんなんて彼と比較すると「へのかっぱ」だ。

4年前に奥さんのオータムさんと結婚し、私達が去年訪れた11月にはオータムさんは妊娠していて仕合わせ一杯のカップルだった。先週の土曜日ロスから電話があり「女の子が生まれた」と報告。予定どうり名前はマヤ ちゃんと名付けた。ロスはお父さんになった。おめでとう ロスとオータムさん!オータムさんとロスは壊れかけた家を買って自分達でリフォームしている。去年11月リフォーム中の彼らの家をロスが案内してくれた。家の中の床が未だコンクリートだった。ひと部屋、 ひと部屋、 丁寧に笑顔で説明してくれるロス。 仕合わせなマイホームが出来るだろう。庭から見渡すルイストンの丘とクリアウォーター川。この広い庭を娘のマヤちゃんが駆け回って育っていくのだろう。

そろそろ夕暮れ時。大学時代は料理が得意なロスはいつも夕食を作ってくれた。ルームメイトのQちゃんはロスの愛情がとけこんだ料理を毎晩食べていた。12年過ぎた今夜もオータムさんとロスご夫婦の愛情が注がれた手料理を頂くことになった。ペー君、ロスおじさんよ。パパの兄弟みたいなひとよ。猫、怖いの? 大丈夫だよ、触ってごらん。ほら、いい子だね。ゴロゴロゴロ。私のお腹はグーグーグー。「ご飯ですよ~」奥のキッチンから声がかかった。Qちゃんの大好物! ペルシャ料理! チキンとポテトのパージャンライス。ヨーグルトときゅうり。野菜サラダ。サラダドレッシング、こんなにあれば迷うな~。

陽気にご飯を食べおえて少し映画を観賞した後は「Qちゃん、ほらルイストンの夜のデートスポットに行く約束でしょう?」そう言い訳しないとずっとロスの家に留まるQちゃん。ロスはもうQちゃんのルームメイトではない、オータムさんの旦那さんになったのだから少しは気を利かせてあげなさい。ソファーに深く腰をかけて寛いでいるQちゃんの手を引っぱった。ルイストンで学生生活をした人なら判るでしょう、ルイストンヒルからの夜景。小さな町ルイストンとクラークストンが一望できる。 「あの灯が大学だろう、それでその下がロスの家だろう。 その右の青い灯が病院かな」Qちゃんが夜景を指さしていう。Qちゃん今夜は冷えるね、もう家に帰ろうか。 有難う、ここルイストンヒルに連れて来てくれて。

ヤキマで週末を過ごしている伯父さんと叔母さんの家に帰り、ルイストン2日目の夜を二人で静に終えることにした。

明日の午後過ぎに伯父さんと叔母さんが帰って来る。12年振りに会う二人。いや~ん、恥しい!ドキドキしながら大学時代Qちゃんが寝ていた小さいベットの上に横になって天井を見上げた。Qちゃんは私の隣でサイエンス フィクションを読んでいた。