母もそんな女性だったような気がする、それは私のイマジネーションかもしれない。
思えば18歳で家を出て、アメリカから帰国した後3年ほどしか母と暮らしていない。
喧嘩ばかりで母が嫌でたまらない暮らし。そんな私が「母という人物」の何をしっているのだろうか。
今では痴呆と精神病でまとわれた母の口から「母という人物」についてもう聞くことはできない。母は私のイマジネーションになって記憶の中で生きていく。
Qちゃんがいなくなったら一人で暮らしていけるかな。 この青空の下で一人で生きていくには淋し過ぎる。 何か「生きる目的」がなければ。私はQちゃんがいなくなったら孤独になるのだろうか。 もう子供はできないだろうから、だれか私達夫婦の家で息子か娘のように同居してくれる日本人留学生を迎えて暮らす。そうしたら毎日どうにかして暮らせていけるような気がする。
贅沢な暮らしはもう望まない。
私を大切にしてくれる申し訳ないQちゃん、所属できる仕事と仲間、自分で育てられる小さな野菜畑、その野菜畑で収獲した野菜で作る晩ご飯、それを「美味しいね、ななさん」といって食べてくれる同居人学生が居てくれたら。
私はそれで充分満たされる。そんな暮らしはいつ始まるのだろうか。体に溜っているもやもやをほうきで掃き出したい。 ハア、 ハア、 ハア。 フッ、フッ、フッ。息を吐いて息を吸う。 体に酸素をできるだけ取り入れたい。
大袈裟に呼吸をすることで道先の見えない明日を頭の中から追い出すことができるような気がする。
人が歩いている。人が動いている。私もその流れに沿って暮らしている。 何もないかのような顔をして人とすれ違う。シアトル? シアトルコーヒショップのことか? それともシアトルの方角を差しているのか。シアトルならまだ許せる。だけど「それ」はないでしょう?!フランスの「パリ」は遠過ぎるんじゃないの?太陽が気持よく眩しい。紅葉が姿を見せる季節がやってきた。 私はまだしっかりと二足で歩いています。
西日でムンムンしたベットルームで眠っている私にそっと扇風機をつけてくれる。心地良い風が体に触れる、そして優しいキスで目を覚ます。
歩き疲れて眠ってしまったみたいだ。
時どきQちゃんにこうして愛されることが恐くなる。明日Qちゃんがいなくなったら私はどうすればいいんだろうか。
そんなこと考えなくていいんだろうが、そんなことを考えるようになっている自分がいる。
人はいなくなるんだから。
子供だって親だって、Qちゃんだっていつかはいなくなるんだから。
悔いは残したくない、だからその日がくるまで彼の側にいたい。
晩ご飯:
半分眠っている。頭がまだぼおっとしている。
一瞬頭の中で「回転寿司でも食べにいこうか」とQちゃんを誘おうかと考えた。
Qちゃんは今週3回も「今夜は回転寿司を食べに連れていってあげようか」と私を誘ってきた。
職場の女性軍が毎週金曜日のランチに回転寿司を食べにいく習慣になっていてどうもQちゃんも誘われているらしい。
「ななちゃんと一緒に行きたいから誘いを断って我慢していたんだ」
Qちゃん、そういうところくすぐったいぐらいに嬉しいけど、どんどん自分へのご褒美もあげてよ。
「じゃ、今度そうする」とQちゃん嬉しそう。
Qちゃんはコンベイヤーに流れるかっぱ巻と鉄火巻をほうばるだろう。 彼の大好物だ。
さてと今晩の夕食を作ろう。今夜はキムチチャーハンを作るって散歩をしながら決めていた。
豆腐のトムヤンクン
こうしてQちゃんに晩ご飯を作ってあげられる。 ありがとう。私はまだ一人ではない。