2008年3月15日土曜日

妊娠ごっこ

「今晩はやけによく食べるな?」Qちゃん驚く。

「うん、二人分だから」Qちゃんテーブルの椅子から転げ落ちた。

「うそよ。そんなはずないじゃない。生理がもうすぐくるわ、そんなフィーリングがするの」Qちゃんと私こんな会話何度しただろう。Qちゃんも私もここまで来ると子供を欲しいと願わなくなった、昔のように。

Qちゃんのプロポーズを承諾するまでの5年、Qちゃんの人生観をよく聞かされた。時にはドライブの車中で、時にはタイレストランでパッタイを食べながら、時には31アイスクリームで一緒にバナナスプレッドを分けながら。

結婚願望は強い人だったように思う。「私」とではなくて彼の価値観と合う「まだ逢わぬ女性」とのものだ。繊細なQちゃんには私のような大雑把な女は彼の理想の奥さんには相応しくなかったようだ。

私はバハイ信者ではない。この事実はある意味で習慣、思考、信仰、価値観、金銭、家庭、行動や言葉、普段の暮らしや二人の関係に影響した。

Qちゃんと一緒になるためだけの目的で私が偽りと外見だけの「即席バハイ信者」になっていたら、私との結婚はもっと簡単にQちゃんの心の中で進んでいたかもしれない。

自分を殺すことはできない、それはQちゃんと何度も話した。 相手のために自分を殺す、納得もいかないのにバハイ信者になる。 これはQちゃんに失礼だし、自分を汚すことではないか。

Qちゃんの生活はバハイ宗教がいつもそばにあった。初めは戸惑ったが、私は私、彼は彼と線を引くように心掛けた。

彼が語る人生観に足を踏み入れるたび彼との結婚生活を描くようになった。「結婚はしないよ」と彼からいわれていても。

あの時の彼は結婚をして子供を育てることを疑わなかった。それを自分に与えられている人生目的で使命だと信じていた。子供はバハイ家庭で育ててどのように地域活動させるか、育児プランが立っていたようだ。

誰の子供を産んでいるかは想像がつかなったが、私も母親になっている自分を疑うことはなかった。Qちゃんの子供でなくても誰かの子供を産んでその人と一緒に子育てをしている姿だ。

もし一緒になって二人に子供ができたら。女の子なら「みかん」男の子なら「ヘンリー」にしようと冗談をいいあって私のアパートで寛ぐようになったQちゃん。子供はバハイ教で育てる。その頃には暗黙の了解になる仲までに二人は発展していた。付き合って3年は過ぎていた。

Qちゃんと金沢市役所で婚姻届を提出したのは22歳の6月の終りだったろうか。国際課担当の親切で爽やかなお兄さんに「おめでとうございます。アディソンさん。」と呼ばれて不思議な気持ちがした。役所を出ると金沢の街並の初夏の緑が益々鮮やかで美しかった。

まだ蝉の声は聞こえない、金沢の涼しげな城下街。

街行く人は薄着になっていて温かい街中をスイスイ泳ぐ涼しげな魚のように見えた。私はアディソンになったことに意識していなかったし、周りが騒ぐほど嬉しくなかった。 Qちゃんはいつものようにニコニコしていたが私はムッツリと無表情で二人一緒に香林坊の昼時を歩いた。 たった今二人が婚姻届を出して夫婦になったとは誰も想像がつかなかっただろう。嬉しさからスタートという結婚ではなかった。

避妊はしない、子供は自然体で。 Qちゃんは子供が欲しかったようだが、毎晩頑張ってというほどでもなかった。

私はまだ20代前半、自由の身でいたかった。自然に任せて授かったら産むが「30才までは時間とお金とエナジーを自分の為に遣う」とQちゃんに宣言した。Qちゃんは私の選択を尊重した。

それから想いのまま日本、台湾、ハワイで教育関係の仕事をしてきた。ハワイで再度大学に戻った時はすでに28才になっていた。 暮らしも自分のことだけで忙しくなってきたころだ。

「もうすぐ30才だね。みかんちゃんかな、ヘンリーかな」というQちゃんのベービージョークが耳触りになってきた。約束の30才まであと2年、Qちゃんとの契約通り育児準備をするのか? チャイルドレスな暮らしに私は一人心地良さを見い出していた。

その頃日本の父の会社が事実上倒産。その2ヵ月後に2度目となる父の心筋梗塞の手術。医者は覚悟をしておくようにと家族に伝えた。「手術は成功した」とハワイで朗報を知る。父は仕事から開放され数年静かに金沢で暮らしていたが、ある日故郷青森に帰ることを決心する。

日本の家族のこと、自分のキャリアのこと、Qちゃんとの夫婦関係のこと、義理の親(ハワイのブルークスとトング)との当時の不快な関係のこと、ハワイでモンモンとしながら口の中で砂を噛むような暮らしを暫く過ごした。

そんな時、プチンと私の中で糸が切れた。今までピーンと張り詰めてせわしく私を走らせていた糸だ。苦しい自分に嘘をついていた糸。見栄や世間で張られていた糸。それが切れた。自分がはさみで切ったのだ。

開放された、心も体もフリーになった。窓から見るハワイの入道雲がこんなに奇麗で大きく包んでくれていたのかと初めて気ずく。ヤシの木が心地良いザワメキをハミングしている。ドップリ主婦生活のスタートだ。心と時間のユトリができた。

それから毎日本を読んだ。Qちゃんを送り出したあと、作業服に着替えて野菜畑で土をいじる。シャワーを浴び朝食を一人でとる。のどかで広大なハワイの空、 遮る鳥達の歌声を耳に、ラナイでアイスティーを片手に読書に更けるのが日課となった。これぞ楽園の島ハワイかなとも思えるようになってきた。

ある時図書館で「チャイルドレス」という本を手に取って好奇心でページをめくってみた。子供のいないアメリカ人カップルのインタビューが集結されたものだ。女性からの視点だけではなく相手の男性意見もその本から聞こえてきた。

子供がいない暮らし、自分の女性相手が子供を産まない選択をした場合、初めは驚く男性が多かったようだ。 きっとQちゃんのように「父親になる自分の姿」を想像して相手の女性と暮らし始めたのだろう。 しかし彼女から事実を伝えられると「それは彼女の選択だ」と自分と切り離しているようにみられた。

彼女は彼女、僕は僕。 そのまま彼女とチャイルドレスな生活を続けるか、別の女性とチャイルドアリの生活を求めるか「それは僕の選択だ」になるわけだ。

事実チャイルドレスの人生を女性が歩き出した時、 彼女を去る男性も少なくない。男性も父性本能があり父親願望があるのだろう。Qちゃんも同じだ。

この先30才になってQちゃんに「じゃ、そろそろ二人の子供を作りましょうか」と催促されて「あの話はなかったことにしてくれ」では契約違反だ。Qちゃんを騙したことになる。大切な人を騙す、嘘をついて暮らす。それは生地獄だ。

その本をまだ読み終えていなかったが、Qちゃんに自分の気持をその夜報告しておきたかった。

Qちゃん、少し衝撃を受けた。 その日は仕事で疲れた、明日話そうと一言いって眠ってしまった。 この時期は彼の仕事が目まぐるしいほどに多忙になっていた頃だ。

次の日Qちゃんとチャイルドレス夫婦について約束通り話した。初めてのことだ。

Qちゃんも本の男達と同じ「子供を産むのは私の選択だ」といった。彼がそう云うことを私は判っていた。 私が一番恐れていたのは「チャイルドレスを選んだ私とこれからどうするか」の部分だ。それは「私達の選択」ではなくて「Qちゃんの選択」だからだ。

Qちゃんの次の言葉を黙って待った。自分の仕事の将来性や可能性、この先どうなるか見通しがつかないこと、子供を育てる環境ではないこと。彼の心中で「子供のいる暮らしをしたい」という感情に異変が起こっていた。

Qちゃんも私も子供がいるから繋がるというのではなくて、子供がいないぶんに繋がっているようなところがあった。 親になるのではなくて、大学の時のままの友達から恋人の延長線のような感じだ。Qちゃんもチャイルドレスな暮らしに居心地のよさを見るようになっていたのかもしれない。

「僕達一生チャイルドレス夫婦でもいいさ。出来たら出来たで子育てをすればいい。ペー君がいるじゃないか。これ聞いたらペー君怒るぞ。」と話の締めにQちゃんがいった。Qちゃんはそのままチャイルドレスな生活を私と続ける選択をし、現在に至る。 Qちゃん、なんかお腹の子供キーキーいうんだけど。気のせいかしら?なんか凸凹だわ。変よね?そろそろ生まれるわ、出たい出たいって五月蝿いのよ。なんかこの子人間じゃないみたい。私オラウータンの雄とは寝てないよ。本当だってば、Qちゃん!

冷やご飯で焼き飯に、スクランブルエッグを作って、レタスとチーズでコーントルティアー。シンプルがゆえにおいしい。タコス万歳!Qちゃん、チャイルドレスの暮らしは慣れたけど「NANALESS」の暮らしはもうできないでしょう?