何も知らない少女から女の初期段階まで過ごした場所だ。
15年前の春私はこのルイストンの土に「自分という種」を撒いたのだと思う。




私を包み込んで温めてくれた場所。ホストファミリー。
私が理想とするアメリカでの今後の暮らし方。それはホストファミリーになって縁ある学生さんに小さなオアシスを提供したい。
きっかけを与えたの当時18歳の私を迎え入れてくれたダナ ハスクルおばあちゃんの家。
私がブログに記録する「ななさん流アメリカ料理」はこの家で毎晩食べたダナおばちゃんのアメリカ手料理が原点だ。
愉快で優しい、だけれどケジメをつけて留学生のホストマザーの役割を20年以上もはたしていたダナおばあちゃん。
私がルイストンをおとずれた時はダナはシアトルの息子夫婦の家に引越しをしたという風の便りが微かに聞こえてきた。
残念だ。
この玄関をダナおばちゃんに「いってらっしゃい!」と元気に見送られて毎朝学校に自転車に乗って通った。

青いスーツケース一つでアメリカに乗り出した18歳の私。その成長を一番認めてくれるのはもうこの家には居ないダナだっただろう。
ダナおばあちゃんの家を出て一人アパート暮らしを始めた19歳の私。今でも覚えているオーナーのラルフおじいさん。 白いヒゲを生やした小太りのおじいさん。カウボーイハットをかぶってブーツを履いていた印象が忘れられない。

4つの部屋があるアパートメント。私は写真左下の地下に住んでいました。

あの頃はズルイ学生でした。 体の関係がないというのを盾にしてずっとサンディエゴの彼と「声と文字」で繋がってました。
だからこんな女に「結婚を前提に付き合ってくれ」とはQちゃんは言わなかった。
過去は過去、現在は未来の延長線。
大学時代のアルバイトは2つ。日本人留学生に英語を教えるアルバイトと家政婦さんのアルバイト。
「がさつな私」と「天使のような省子さん」と「聡明な明美ちゃん」の大学3人娘がこのマンションに住んでいた島根大学の名誉教授の安達教授の家政婦さん(らしきこと)をしてました。

語学を教えながらホームステイをしたいのも大学時代のこんなアルバイト経験が土台となっています。
安達教授は日本国宝に選抜された農業学者でいつも本を書いておりました。 とても温厚で優しい方で掃除も洗濯も自分でおやりになっていました。
そして時には書斎から出てきて「少し外の空気を吸ってきます」とキッチンで夕食の支度をしている私に優しく告げると、ルイストンの紅葉の道を一人で散歩に出掛けるのです。

自分が先生のお年になったら人から尊敬されなくてもいいが毒のない素朴なおばあちゃんになっていたいものです。


アメリカで免許を取った私。
最初の車はニッサンスタンザでした。
故障するとこの修理屋さんに連れてきてよく直してもらったものです。

朝早いけどお世話になったメカニックさんはいるかしら。 車でウロウロしていると中に人影が。あっ! いた!いた!
「いや~!早朝車がウロウロしているからどうしたのかなと思って出てきてみたら! こりゃ、驚いた! もちろん、覚えているよ!」とメカニックのピートさんが仕事場所から顔を出してきたではありませんか!

想い出の街ルイストンで最後に会った人は、車社会アメリカで私の車の主治医だったピートさん(とデイブさん)でした。
「他に行きたいところはあるかい? 」と車に戻ったQちゃんがいう。
ピートさんにも会えたんだから、もう充分。 悔いはないわ。
「そうか。じゃ、ルイストンともしばらくさよならだ」Qちゃんが車のエンジンをかける。

Qちゃんサーモンとななサーモンが乗った車が静かにスネーク川にかかる橋を渡っていく。 二人が出逢った街ルイストンを後にして。