仕事仲間のジャネスさん。 ハワイのオアフ島出身の日系アメリカ人。
おおらかなところ、ノンビリマイペースなところ、ほののんと優しいところはさんさんとした太陽ときらきらと輝く海、上品で涼しげな風をうけて育った「ハワイっ子」特有ではないだろうか。
ハワイにいると異国にいた気がしなかった。 それは日系人が他移民と共に築き上げてきたハワイアン文化が「日本で生まれ育った日本人である私」を優しく抱きしめてくれたからだ。
現代日本人よりも日本人の心や習慣を重んじる日系人。 日本人の私がとうの昔に忘れてしまったものを彼らが教えてくれたような気がした。
私の世代が生まれる前の日本、 もっと遡る私の両親が生まれる前の日本の風習や仕来りを、揺れ動き変わりゆく時代と共に彼らはなんらかの形で受け継いできた。
それは厳格なオリジナルのままのものでもあれば、日系人の後世代がアメリカナイズされていくと共に他文化とミックスされていったものもある。 ハワイのランチプレートのように多文化が混合されて一つのハワイアンカルチャーになっていった。
年配の日系人から「子供の頃の話」をきくのが好きだ。 それは私が子供の頃遊びに行った祖父母との想い出を起き出させるからだ。
ジャネスさんも時折ハワイ日系人の家族構成や価値観を語ってくれることがある。 私の祖母や母の姿が想い出される瞬間だ。
私は「その女領域」に閉じ込もるのが嫌で、ハワイの後世代日系人がしたように「それまでのオリジナルな女役割」を破り「新しい私の女役割」を作り出していった。
アメリカに興味を抱き「日本人ではない男性」と生涯を共にすることを迷うことなく私が決断したのはこういうプロセスがあってのことだった。
今でこそ肌の色が違う者同士が片を並べて堂々と歩けるようになったが、昔はそう簡単にはいかなかった。
クリスチャンで育ち、短大を中退して、再婚歴のある歳上の仏教徒を愛した日系3世ジョアンナ。
彼女の家族は「宗教の差があっても肌の色が近いアジア人ならば許せるが黒人は別だ」と若い彼女を家から勘当し親子の縁を「暫く」切った。
当時はまだ「ダークスキン」ということに偏見があった時代だ。
「暫く」は2年後ジョアンナが男の子供を産んだとき消えた。 親ならば自分の娘が産んだ孫を抱きたい。ジョアンナのご両親だって同じだった。
それからジョアンナは3人の男の子供をもうけた。
私は「ジョアンナの人生」を通してハワイ大学の日系移民のクラスのドキュメンタリーを書いているところだった。
ジョアンナをインタビューし彼女の人生を遡るうちにひとつ重大なことを知る。
ジョアンナと御主人の間には婚姻という法的関係は1度も結ばれていなかったのだ。
20年以上の間彼らは法的でいう「同居人」という形で登録されていたようだ。
「いたようだ」というのは私が彼女にインタビューをしているとき彼女はすでに「同居人」と別れて「シングルマザー」になっていたからだ。
ジョアンナの3男は私の日本語の生徒でもあった。彼は日系人の母の影響もあり日本という國に深く興味を持っていた。 「大学を卒業したら日本へ行きたいです」としっかりとした日本語で私にそう告げると彼は立派に高校を卒業していった。
私は「ハワイの日系人」には良い意味で可愛がってもらった。しかし頭から爪先の下までアメリカナイズされた「ジャパニーズアメリカン」にはどうしてもビジネスライクの関係でしかつながることができなかった。
余談がどんどん膨らむのでここで本題に入ることにする。
ハワイはオハナ(皆家族)文化だと思う。
ハワイの人達はとても気さくで警戒心がなく気前がよい。これはメインランドの人達が備える気さくさでもないし、開放心でもないし、気前のよさでもない。
利己的目的な優しさではなくて「駆け引きのない境界線のない優しさ」とでも表現しておこうか。
ジャニスもそうだ。 料理が上手なジャニスはハワイの郷土料理には奥が深い。そんな彼女がホームメイドアイスクリームと茹でピーナッツを会議にもってきてくれた。
会議中だというのに私は一人で顔をにんまりしてアイスクリームを2杯も食べ、ハワイアンソルトが決めての歯応えのよいピーナッツをむさぼっていた。
斜め前に座るジャニスに「超うまい!」という文字とニッコリフェイスマークを紙ナプキンに描いて仕事のボスさんに悟られないようにこっそりとテーブルを滑らせて彼女に渡したほどおいしかったのだ。
「そんなにおいしかったら家にもっていってもいいわよ」と会議が終った後ジャニスが云ってくれた。家に帰って最初にしたことは「アイスクリームを食べる」だった。アートフィッシャルなストロベリーの味が遠いどこかに置き忘れてきた「懐かしさ」を再起させる。
ストロベリーアイスクリーム - ハワイの優しい味がした。