「いいよ、頼んでみる。 忘れないようにメモを僕の靴の中に入れておいてくれ」
「Ask Monday (月曜日の件、頼んでおいて)」簡単にメモを残し、私は仕事に出掛ける。
帰化面接のその日に宣誓式も終えることができると思っていたが、月曜日になってしまった。
その日は仕事が入っていたが試験官に「これは命令ですから必ず出席して下さい。なんなら会社宛てに手紙を書きますよ」と書類まで持たされた。
さっそく仕事に行って朝一番でそのことを報告してアレンジをする。
皆さん報告を聞いてハイファイブをしてくれたり、おめでとうの言葉で私は包まれた。
めでたいことなのだろうか。人生の節目なのだから、やはりめでたいのだろう。
家に帰りパソコンを開こうと椅子に座ると私が今朝Qちゃんに書き下ろしたメモがある。
Qちゃんの文法添削は久し振りだ。
私が書いた原文の「Ask Monday 」に「for 」と「off」が加えられて「Ask for Monday off 」とされている。
「やった!僕も2日間のオフがもらえたぞ」Qちゃんが書いたスマイルファイスも一緒だ。
思えばアメリカの大学を卒業できたのはQちゃんに英語文法を添削してもらったからだ。
アメリカの大学を侮ってはいけない。
結婚後仕事をしながら、言語学、教育学の文系を専攻した私はレポート、小論文、 感想文、インタビューリポート、評論文、ビジネス型式の簡単な依頼書、リサーチペーパー。
毎週必死になって書いて、書いて、書かされた!
ハワイのチャータースクールで教職/管理職をしていて毎晩ドップリと疲れて家に帰ってきたQちゃんに「猫撫で声」を体のどこからか絞り出して添削をよくねだった。
Qちゃんも多忙な毎日だった。彼が添削をしてくれる唯一の時間は「学校に行く前」だった。そういう暮らしが4年程続いた。
私は生まれた時から楽天主義なのかもしれない。
少しくらいスペルが間違っていても、文法の「at」と「in」を書き間違えていても教授も寛大に見てくれるだろうと呑気なことを言っていた。
しかし、そんなチンチクリンの私にQちゃんはとてつもなく厳しかった。
私のレポートに間違ったスペルを3つ見つけると「こんなんじゃ駄目だ。スペル点検をしてないだろう? スペル点検をもう1度してからもってきてくれないか」と私にそのレポートを手渡すのだ。
同じ文法の間違いを見つけると「真剣に取組んでくれたかい? そうとも見えないな」と厳しく言って「やり直し」とペーパーをその場で閉じて私の目の前につき返すのだ。
アメリカの大学レベルと英会話とでは相場が違うし、「書く方と読む方」も「話す方と聞く方」も期待する内容レベルが違うのだ。
これは「アメリカに旅行に来る」のと「アメリカに住むこと」は別な領域だという言葉に置き換えられる。
オレゴンに来てから仕事で日本語を話すことができるのですっかり英語の活字から遠退いた。
だけれども今の私はそんな「のんびりしたアメリカ暮らし」が好きだし、このスタイルを維持していきたい。
夜の成田空港からシアトル行きのフライトに一人で乗ったのが16年前の3月。
この16年、色々あったな。
この16年多くの出会いを経験して、私は今こんなに温かい風呂に体を浸らせている。アイダホ州ではけんじ君を初め、ハワイ州ではじゅんさんを初め、 ここオレゴン州ではとしさんやひまわりさんを初め、弱い自分を励ましてくれる力強い人生の先輩達が私が進むアメリカの地に与えられていた。そしてQちゃんがいた。彼は私にとって掛け替えのない人物だ。今迄の友達や、 此からの友達との出会いは「縁」だろうが、 Qちゃんとの出会いは「運命」だろう。
ふっと息を吐いて本を読むことにする。
最近よく目にする名前。人気のある作家らしい。読んでみると矢張り面白い。この本の中で主人公とその妻が仕事ですれ違いだんだんと感情が薄れていくのが描かれている。
台所に溜っていく汚れた食器を相手が洗ってくれるまで待つのだが、両者とも「仕事で疲れているのにどうして『自分』が洗わなければいけないのか」と相手への敵視した感情に徐々に変化していく。とうとう自分の使った食器しか洗わないという相手を配慮する気持ちがなくなる。
確かそんな設定だった。私とQちゃんにもこういう時期があった。ストーリーのような夫婦だった。危険信号だった。
彼の優しさを「弱さ」と思い、彼の辛抱強さを「頑固」と指摘したり、自分のことで手一杯で彼が見えなくなっていた。
彼もそう感じていたかもしれない。
本を読み終えていないから「この夫婦」の結末はどうなるのかまだ明らかではないが、私とQちゃんは離婚することよりも復縁することにした。
今までの時間に追われる稼ぎのいい仕事より、時間があるときに二人で散歩が出来る今の仕事を選んだ。
汚い皿が台所に放置してあれば、お互いに相手を想いながら皿を洗えるゆとりがもてる暮らしになった。収入と社会のバッチを追いかけることだけを考えて「あんなかたち」で彼をもう失いたくない。
Qちゃんがいなかったらこの16年の私のアメリカンストーリーは空白だっただろうし、これからQちゃんがいなくなったら物語の続きは味気なくなってしまう。
この16年ずっとアメリカに抱いていた気持ち。その感情の分厚いコートをまとって、私は明日宣誓式に出席する。
今までの16年の重々しいコートを脱捨てて「どこか違う、なにか新しい息吹」を身体に感じながら、私は明日宣誓式会場を後にするだろう。