このまま布団に戻って横になろうかと迷ったが起きることにした。
アメリカ帰化面接の日がやってきた。
大丈夫だという安心感はあるがやはりナーバスになっている。気分転換にQちゃんの朝ご飯にコーンブレッドを焼く。
パソコンをいじってその間に洗濯機を回す。
アパートの部屋にゴーッという洗濯機の回る音が背後に響く。ナーバスな時には何か雑音があると気持ちが紛れてかえって助かる。
やるだけのことはしたのだから後は流れるように流されるだけだ。ゆっくりと目を閉じてそう自分に言い聞かせた。
Qちゃんが起きてきた。小さな部屋はコーンブレッドの焼き上がった香ばしいかおりに包まれている。
Qちゃんがシャワーを浴びている間、私は彼の緑茶を作り軽いブレックファーストの準備を調える。
シャワーを浴びたQちゃんに乾燥機から取り出したばかりのまだ温かい下着を渡し私はテーブルのコーンブレッドにナイフを入れてカットする。
キッチンの戸棚からモラセスを取り出しテーブルに置く。緑茶をカップに注いでブレックファーストの準備完了。
小綺麗になったQちゃんが笑顔でテーブルの席につく。
彼の大好きなコーンブレットに手を伸ばし黒ぐろと光沢のあるモラセスを上にかける。 どろどろした濃厚なモラセスがどんどんとブレットの中に染み込んでいく。
「とうとう来たね。君なら大丈夫」そういうとQちゃんはブレッドを口の中に運んだ。
途中でパサパサしているコーンミールがテーブルの上に落ちた。 私はそれを拾いあげて自分の口の中に入れた。
そのまま二人は優雅な会話をした。
大統領選挙の話から始まって、家族や友達の話、仕事の話。 取り分け特別でもないが今朝の私にはなぜか素敵な会話をしているように感じる。
私がQちゃんの国籍になれるかどうかが後5時間以内で決まる。
私の人生で重要な節目になる日だ。
なのにこんなにゆっくりした朝を過ごせる二人。お互いにそうなることをどこかで予期していたのだろう。
「そろそろ出掛ける準備をしよう」Qちゃんはパソコンの前に座ってダウンタウンの地図を見ながら面接場所の確認をする。
「よしっ、行こう。 書類は持ったかい? 」パソコンの電源を切って振り向く。ピンクの口紅を差して正装をした私は胸を張ってうなずいた。
うん、いきましょう。
面接場所はダウンタウンのチャイナタウンの近くだ。
昼の面接時間まで少し時間があるのでQちゃんはいつもの「飲茶デート」を計画していた。
「チャイナタウンまで歩こうか」Qちゃんと私は小雨が降るダウンタウンを歩いた。
チャイナタウンまでの道のりは長く続く公園沿いを歩いた。
都会の朝、出逢うオレゴニアン全てが「絵」になる風景で息がこぼれた。
「写真を撮ればいいよ」Qちゃんは足元を止めて優しく私に告げた。
Qちゃんもこの街の中に存在する「絵になるオレゴニアン」だなと思う。
この街で暮らしてから「Qちゃんはやっぱりノースウエストの人だな」とますます思うようになった。
ソフトで、優しくて、マナーがあって、開放的な考えを持っている。都会人ではないけれど田舎の人でもない。 知的で行動力はあるが必要な時にしか攻撃性は見せない。Qちゃんは私がイメージするノースウエストの人だ。
公園にはたくさんの絵になるものがあったが、面接のことで少し緊張気味な私はカメラを握ることができなかった。
然しこの銅像の前を過ぎたとき、Qちゃんがカメラを握り頼みもしないのにパチパチと写真を撮り出した。親子の象。数ケ月前にオレゴン動物園で象の赤ちゃんが生まれ地元ニュースで賑わっていた。象の赤ん坊のテレビ映像があまりにもかわいかったので、Qちゃんに「オレゴン動物園の赤ちゃん象の写真を撮りに行くデート」を計画させようと車の中で今朝商談していたところだ。車の中であまり乗り気な返事をしなかったQちゃん。彼に強制的に「うん」と返事をさせて商談を私有利に同意させたつもりだった。「これで象の赤ちゃんも見ることができたし、象の親子のカメラ撮影もできた。 もうオレゴン動物園に行かなくてもすむね」クスクスと笑うQちゃん。
これは彼のアメリカンジョークなのか本音トークなのか私には判らない。
「そうだね、あははは。貴方って面白い人ね、あははは」で済むほど私はもう若くもないし、初(ウブ)でもない。
アメリカンジョークということにしておこう。
今回はいつもとは違うレストランで飲茶を頂くことにした。
いつも行く飲茶レストランの無愛想な接待とは違い、この店のウエイトレスのサービスはとてもフレンドリーで居心地が良い。
頼む前から「お茶」がテーブルに差し出される。
飲茶はお茶を飲みながら食、話、笑、愉しむためにある。
心得のあるサービスに感動した。
中国訛りの英語で優しい挨拶をしてくれたウエイトレスが奥に消えたあとでQちゃんがいった。
「僕からの前祝いだ。帰化おめでとう」
テーブルの前に座る、これから自分と同じ国籍になろうとしている「彼の奥さん」にQちゃんが言った。
前祝いだっていうけれど、面接で否定されたらQちゃんに合わす顔がないじゃない。
そう言いながら私はウエイトレスが運んできた飲茶が積み上げられたカートを体を乗り出して覗き込んだ。
それと、それ下さい。海老のハカオと豚肉蒸し餃子で飲茶デート開始。Qちゃんは中華レストランに行くと必ずウエイトパーソンにチャイニーズマスタードをもってきてもらう。「おでんにカラシ」、「寿司に山葵」というようにQちゃんにしてみれば「飲茶にチャイニーズマスタード」はセットなのだ。では頂ます。
小麦が駄目なQちゃんのオーダー。海老を米皮で包んで蒸してある一品。甘いタレで頂きます。Qちゃん、私は基本的に食べることが好きだけど貴方とこうして緊張しないで食べることが好きだわ。Qちゃんの大々好物! チキンフィート!Qちゃん、私の手とチキンフィート、どちらにむしゃぶりたいですか?お次はQちゃんが少しかじったセサミボール、海老と野菜の米皮揚げ餃子、海老と帆立を米皮で包んで蒸したもの。私のセサミボール王子さま。これを食べに来たんでしょう。
いいのよ、何もいわなくて。 セサミボールを満喫してちょうだい。海老と野菜の米皮揚げ餃子の中身。海老と帆立を米皮で包んで蒸したもの。小麦の皮が食べごたえある豚肉の焼き餃子。お腹いっぱい。面接で眠ってしまったらQちゃんの責任だからね。
飲茶デートを終えて会計を済ましQちゃんと私は面接会場へと向かう。
面接会場でQちゃんと私は本を読んで試験官に名前を呼ばれるまで待つ。
一人、二人、三人、四人。試験官に名前を呼ばれ次々と姿を消していく。
とうとう私の名前が呼ばれ試験官の女性のオフィスで面接が始まる。
面接は順調に進み試験も終りなんと10分もかからなかった。
試験官も「こんなに早く済んだのは初めてだわ。次の面接までコーヒーブレイクができたわ」と彼女のジョークに背を押されながら私は彼女のオフィスを後にした。
待ち合い室に戻ると「なぜそんなに早く戻って来たのか」と興味を隠せない目で皆からジロジロと見られた。Qちゃんも驚きの顔を隠せない様子だ。
Qちゃんと私は待ち合い室を出た。
天井は見上げる程高い素晴らしい建築のビルディング、廊下は果てし無く長く見える。
この廊下では声がかなり響く。
「一体どうしたんだい」心配そうな顔をしたQちゃんが声を潜めて尋ねた。
余りにも私が早く戻ってきたので何か問題でもあって返されたのかと思っているらしい。
帰化宣誓式は月曜日に行なわれ、私はセレモニーに出席しなければいけないということをQちゃんに告げるとQちゃんの顔に笑顔が戻った。
ビルディングを出ると今までの緊張感がすっーと体から抜けていくのを感じた。
それはQちゃんも同じだったようだ。
「飲茶とチップに駐車料金込みの『帰化前祝いデート』。高くついたな」Qちゃんはクスクスと私を見ながら言う。
どう出るか私の反応を楽しんでいるようだ。その手には乗らないわよ。
公園での赤ちゃん象の写真を撮った後のコメントといいこのコメントといい、これらはQちゃんの「アメリカンジョーク」なのだろうか。それとも「半分本音トーク」なのだろうか。
「ハニーちゃん、月曜日の帰化宣誓式まで残り3日だね。 それまで悔いの残らないように『日本人』を充分に楽しんでね」くすっとQちゃんはウインクをして見せる。
やられた。
そういう憎めないことをする貴方の隣に死ぬまでいたいから。
その気持ちが、私をこうさせた。