Qちゃん、10月の2日の木曜日はオフを取ってくれるようにリクエストしておいてね。
そういったのは数週間前のこと。 アメリカ移民局から帰化面接通知が届いた夜だ。
あれから変哲もない毎日を送り、ついに明日は面接日となった。
今週は体調が優れなかったので「Qちゃんとの食後の散歩講座」を怠っていた。今晩のウォーキングは1週間振りくらいだろうか。
Qちゃんは遠くに映える夕暮れの層を見るのが好きだ。そして「この時間帯」を選んで散歩をするように私を促す。
ずっと立ち並ぶビジネスビルディングの合間を赤い層が包む。その上をオレンジ、黄色、薄紫の層が色を重ねながら夕暮れの空を演出している。
「僕達のサンセットコースだ」そういって眩しそうに前方を見て胸を張って歩くQちゃんの横顔を見上げながら、私はひたすら彼のペースについていく。
信号のない一時停止の路地。
ここは自動車が3方向から向かってくる「散歩コース」で一番危険な場所だ。
クリアだと確認してQちゃんと少し小走りに歩道へと移動する。
子供達のパーティーイベントで賑わうアメーズメントビルディングを横目にホームセンターが見えてきたら、2年前に閉鎖になった小さな韓国食料店前の道路を横断しメインロードに建つガソリンスタンドを横切る。
ガソリンスタンドのガソリンの値段はこの景気の中で一定することはない。下がって喜んだり、上がってがっかりしたり。その繰り返しだ。
ガソリンスタンドの隣はベンツ専用修理工場でメカニックがそろそろ店閉めにとりかかっている。
私とQちゃんはそのまま早足でモールの駐車場へとコースを進める。
住宅街の裏道に入りいつもの胡桃の木の下にやって来ると、私とQちゃんは地面に落ちている胡桃の実をサッカーボールにして戯れる。
彼が胡桃を蹴れば、それを私が蹴り返す。
時には道を逸れて芝生に入っていったり、時には雑草の中に入っていったり。
道路の真ん中で胡桃のボールを追いかけて二人はあっちへちょこちょこ、こっちへちょこちょこ移動する。
この時間帯にはあまり車が通らないからできるサッカー練習だ。
これは何の実なの? 地面に落ちている「緑色の実」を手で拾ってQちゃんに尋ねた。
サッカーの特訓が「散歩コース」に加わるきっかけの始まりは「私のこの一言」だった。
ノースウエストに生い茂る高々しい木々が少し黄色の葉を飾り始めている。
「胡桃じゃないか! 見たことがなかったのかい?」驚いた表情を見せるQちゃん。
自分が育ってきた場所、触れてきたもの、そして愛してきたものはまるで私も共同しているかのような態度だ。
日本で育った私にはノースウエストで育ったQちゃんと共同するものはまだまだ少ない。
なのにQちゃんは時々私が日本で育ってきたことを忘れていて「そんなことも知らないのか!?」というような反応を示す。
スパイダーマンやバットマンなんかのコミック漫画をあまり知らないというとよく「そんな態度」を表す。
Qちゃんがキャンディーキャンディーやアラレちゃんをあまり知らないというと私も「そんな態度」を表すのと同じだ。
それほど私達は長く共存しているからかもしれない。
殻の中に入った胡桃しか見たことがないんだもん。大きな胡桃の木の下でフグのようにプッとホッペを膨らませる。
Qちゃんは地面に落ちている調度断片図模型のような実を拾い上げた。「ほら、これを見てごらん。こうやって緑色の厚い皮で茶色の硬い殻は包まれているんだ。」「そしてこの硬い殻を割ると胡桃の実が入っているってわけさ」
へえ~、 おもしろいな。
感動してしばらく地面に散らばる土交じりの胡桃達を触っている私に愛想を尽かしたのか「さあ、もう行くぞ」とQちゃんは背を向けてすたこらさっさと歩いていく。
Qちゃん、木曜日仕事はオフにしてくれたの?
「もちろんだ。それは通知が来た次の日に伝えておいたよ。この前のカンパニーピクニックでももう一度確認しておいたよ」
念には念を入れておく。
「理由は何だったかなと聞かれたから『家内の帰化面接試験』と答えたら『そりゃ重大な日だ!付き添ってあげなきゃいけないな。がんばれよ。おめでとう』って言ってたよ」
「おめでとう」っていってもまだ許可が下りたわけでもないのに。
それにQちゃんが付き添っても何にもできないじゃない。試験官の前で口答するのは私なんだもん。
Qちゃんは私の面接試験が終るまで待ち合い室で本を読んでただじっと待つことしかできないじゃない。
「がんばれよ」っていう励ましの言葉。まるで初出産を体験する奥さんに付き添う御主人に投げかける激励みたい。
なんだか私が出産するみたい。ふふふと私は笑ってQちゃんを見た。 運動効果が出てきた息ずく顔にQちゃんは微笑みを浮かべている。
私のアパートの6倍はある斜め前のアパートの駐車場に入る。散歩コースの後りが近ずく。
誰も利用していないアパート住民専用の温水プールとジム施設の前を羨ましい目を投げて通り過ぎる。私なら毎日でも通うのに。
ワンワン、ワンワン。 住民達が敷地内で犬の散歩をしている。
このアパートは犬を飼っている人が多いので斜め前の私の2階のアパートからもいろんな犬を見ることができる。
大きいのからちんこいの、細いのやら運動不足のやら、ツンとおすましからダラダラと舌を出しているワンコ達を偵察できるのだ。
さてと我が家のアパートに帰ってきた。
ただいま。
こうして散歩ができる暮らしをさせてもらっている自分は恵まれている。ありがとう。
どうにもできない時期、それは運命に自分が試されていると考えろ。
水門が開くまで待つがいい、今まで溜りかねた水が泥の沈みまでも流し出してくれるだろう。
だから自分を失うな、もう少しだ。
明日のこの時間、私とQちゃんはこうして「散歩コース」を歩いているのだろうか。
だとしたらどんな会話を交しているのだろうか。