2007年11月21日水曜日

12年振り、アイダホ州ルイストンに帰ってみます-- (4)

石川県金沢市の進学校を高校2年で中退した私を周りの先生、親、友達は呆れ顔だった。成績は悪くはなかったし、このまま関西の外国語大学に進学すると思っていたらしい。 が、一つだけ問題があった。 私はズル休みをする女学生だったのだ。先生達も友達も知っていたし、本人の私自身も認めていた。要するに高校中退の理由は出席日数が足りなくなったこと、このまま大人達がアドバイスするように日本の大学で英語を勉強するよりも、アメリカで生の英語を勉強した方が早いのではないかと生意気にも思ったからだ。周りの大人達や友達は「そんな夢みたいなこと言うけど、留学することは大変なことなんだよ!」と、否定的だったな(笑)。

これと決めたら周りのアドバイスなんて聞こえない。 直ぐにアルバイトを始めて翌年の春に飛行機に乗って一人でアイダホ州のルイストンまで飛んでいた。この勇気がなかったらQちゃんと出逢うことはなかった。

ルイストンに来てからホストマザーのダナおばあちゃんの家に住むことになった。 とても明るくて、優しい、料理が上手で、ユーモアタップリの当時20年以上も大学から留学生を迎え入れているベテランのおばあちゃんだった。 この時から日本人学生のホストマザーになりたいと思うようになったのはこのダナおばあちゃんの影響があるからだ。

ダナおばあちゃんの温かい家から毎日自転車で語学学校に行き、大学レベルの英語力を身に付けるための色々なスキルを得るカリキュラムの中で勉強した。
日本語を話すのが嫌で日本人のクラスメートにも日本語で話していた私。アメリカに居るのだから英語ドップリの環境に浸りたかった。友達も英語でしか会話ができない外国人留学生とよくこのカフェテリアで食事をしたりお喋りをしていた。

アメリカの授業で最初に困ったことは「アメリカの大学ではコンピューターが使えることが基本」だということ。短いレポートでも形式にそった大学レベルのものを提出しなければいけないのだ。

コンピューターに触れたことがない私はこの事実に戸惑った。クラスメートの由美さんがコンピューターの使い方を教えてくれると親切にも言ってくれた。その日の午後に二人でコンピューター室で待合せの約束をした。

この頃Qちゃんはすでに大学生だった。バハイ教信者のQちゃんは世界共同平和感念が強いので留学生や外国人に興味がある。それは今も昔も変わることはない。

友達も留学生が多かったし、名前も「QUDDUS (クデュース)」とアメリカ人には不慣れだし、女性のようにソフトな声は外国人が英語を話していると勘違いされていたし、意外と顔の堀が深いからなぜかギリシア人留学生だと信じていたアメリカ人を数名私は知っている。

ちなみにハワイに移ってからもよくこれらの理由で国籍はアメリカ人だとは思われていないケースがよくあった。

買物に行くと外国人の私が話す英語が分からないので眉をひそめる店員が、私の隣にいる"外国人"のQちゃんに助けを求める視線を送る。Qちゃんが英語で説明すると「奥さんよりもかなり英語が達者だけど、どのくらいアメリカにお住いですか?」というのが何度もあった。 Qちゃんは made in the Northwest of America, 100% guaranteeよ!でも Qちゃんがギリシア人だったら喜んで彼の故郷のギリシアで暮らすのに、、、と叶わないことを願う私である。

私がルイストンに着いた3月の半ば、タイから数名留学生が来て語学学校で英語を勉強していると友達から情報を得たQちゃん。 Qちゃんの義理の継母(ハワイ島に住むブルークスパパの奥さんタングさん)はタイ人なので、 ぜひ知り会いたかったのだ。

数日後友人とカフェテラスへランチを食べに向かう途中の階段を下りていると友人が囁いた「ほら、あのグループだよ。この前言ってたタイ人留学生グループ。」 Qちゃんは彼らに目を向けた。

そのタイ人学生グループの中に日本人の私も一緒に偶然居合わせていたのだ。 前にも書いたが私は英語を練習したいため外国人留学生と一緒に過ごすのが習慣になっていた。その時も煙草を吸う彼らと一緒にテーブルでお話をしていたのだろう。遠くから見るそのグループの中でピンクの服を着ていた女の子が印象的で「あの子と友達になりたいな」と、男心を出すQちゃんであった。
(昔はこの広場で煙草を吸う学生のためにテーブルがおいてあった。Qちゃんが私を初めて見かけたのはこの場所だったとシミジミ語るQちゃん。)

コンピューター室の前で待っても由美さんは来ない。5分程遅れてアメリカ人の学生が「NANAさんですか? 由美さんは都合で来れないんで、僕が替りにコンピューターを教えます。それでもいいかな? 僕の名前はコリーです。」

その日はコリー君にコンピューターの基本を教えてもらってなんとか宿題のレポートを仕上げることができた。(のちにコリー君は大学で天使のように尊敬され親しまれていた省子さんの彼氏となる運命にあった。心優しい人のもとには心優しい人がくっ付くようになっているのでしょうか。)

(コリー君は確か医者になるのが夢だった。日本で看護婦をしていた省子さんは大学でナーシングを学んだ後、シアトルに移り看護の仕事をしているいう葉書が日本の私の家に届いた、もう十数年前のことだ。 その翌年ずっと恋人だったコリー君は持病でこの世を安らかに立ったという知らせが省子さんから届いた。その後省子さんと連絡がとれない、シアトルのどこかにいるのは確なんだけど。「NANAちゃん、成長したね」あの素敵で温かい省子さんスマイルで再会したい。 天国にいるコリー君、有難う。 あなたのお蔭でQちゃんと出逢ったと言っても過言ではありません。幸せです、私。)

コリー君のお蔭でコンピューターで一人でレポートを書けるよになってきた頃のことだ。何時ものように授業が終って図書館で宿題をしていた。


ふと教科書から目を上げると向うのテーブルに中国人留学生とアメリカ人学生が勉強をしていた。まだアメリカに来て間もない私はそのアメリカ人学生がコリー君のように見えたのだ。


「コリー君かな? 似てるけど人違いかもしれない。けどコリー君だったら、 お礼をしないといけないだろうな。うーん、どうしよう、どうしよう。」と頭の中で考えていると、その人と目が合ってしまった! ひゃ~、どうしよう。 取り敢えず笑顔でリターン。すると、、、、


「あなたはタイ人ですか?」と後ろから優しい声で聞かれた。「、、、、いいえ、日本人です。」と応えた。「済みません。タイの方だと思っていたんです。僕はクデュースっていいます。」私がQちゃんと初めて出会った日だ。

「国籍」に関係なく「魅力ある女の子」として近ずいたなら、普通は「貴方の名前は何ですか」が先に来て「あなたはタイ人ですか?」はその後に来るはずだ。Qちゃんは私がタイ人ではなく日本人だったことにがっかりしたに違いない。


そのことを結婚後聞いてみたことがある。するとQちゃんは「タイ人だと思ってたのは確だけど国籍はどうでも良かったんだ。あのピンクの服を着ていたNANAが可愛いかったんだよ。だからNANAが僕を見てた時、やった!チャンスだ!って喜んで話しかけたんだよ。可愛いかったね、あの頃は。」なぜ過去形なのよ、Q太郎!


Qちゃんがお気に入りだった私のピンクの服は姉の千寛ちゃんから貰ったものだ。前がゴールドのジッパーになっていて、そのジッパーの先に黄金の象さんが付いていた。その服を着るとなぜかいつも喜んでいたQちゃん。男の人ってピンク系(Qちゃん曰く黄金の象さん)が好きなのね。


翌日図書館で勉強していると後ろからまたあの優しい声がした「お時間ありますか。」


付いて行くと分厚い世界地図を開くQちゃん。その中から日本地図のページを開けて「日本のどこの出身ですか」と恥しそうに聞いてきた。出逢った頃から本当に世界地理、世界史、国際政治が好きなQちゃん。「英語のリスニングの練習になるからまっいいか」なんて一緒に地図を眺めながら思ってた。今では「また始まった」に変わった。


その後二人は図書館で会う度にお話をしたり、宿題や英語の質問はもちろんQちゃんに教えてもらった。Qちゃんは昔から人に教えることが好きだったし上手だった。小さな疑問でも丁寧に応えてくれた。これは彼特有の人柄でもあり彼の人徳でもあると自信を持って私が主張する。


いつも図書館でお話程度だったが、Qちゃんがある日「ソフトクリームを食べませんか」と初めて図書館の外へと私を誘った。春の陽射が温かく図書館の広い芝生で学生達がサッカーをして汗を流していた。


図書館前の広い芝生を横切るとランチショップがある。サッカーをする学生達の側をボールに当たらないように注意深く横切る二人。


腹ペコの学生や大学職員を相手に朝食やランチを提供しているランチショップ。ソフトクリーム、ソフトドリンク、シェイク、フロート、サンドイッチ、ハンバーガー、スープなどメニューや内装はもちろんアメリカン風だ。今でもきっとそうだろう。


この店で私はチョコレートかストロベリーのソフトクリームを注文しているはずだ。なぜなら 私は昔からチョコレートかストロベリー味が好きだからだ。Qちゃんは何を注文してたかな。


店を出て大学の芝生に座って二人でソフトクリームを食べながら少しだけ将来のお話をした。この時Qちゃんが「卒業したら東部の大学院に行く」と云ってたのを鮮明に憶えている。私はまず大学に入学することで頭がいっぱいで将来のことは考えてなかった。二人とも卒業したら二人は結婚するなんて予想もしてなかっただろう。太陽の熱で溶けるソフトクリームをペロペロと舐める二人だった。


数年後私は専攻をホテル/レストラン マネージメントにした。単位稼ぎのためにこの店で2ヵ月程無償で働いた。オーナー(名前は忘れた) が可哀想に思ってくれて、いつもハンバーガーとフレンチフライを食べさせてくれた。 懐かしい想い出だ。


時々お店では「今日のスペシャル」を出していた。スープの時は大学生のアルバイトのザック君が冷蔵庫の残り物の野菜で作っていた。トマト風、クリーム風、チキン風、キッチンの奥でラジオを聞きながら俎板の上でリズミカルにセロリや人参を手際よく切っていたザック君。彼の作ったアイダホポテトタップリのクラムチャウダーは美味しかった!お昼が過ぎる頃にはもちろんスープは売り切れ。英語で苦労していた私をいつもカバーしてくれたザック君、有難う。


こうして一つ一つ写真にしてみると想い出さなかったことが想い出される: いろんなかたちで数え切れない沢山の人に支えられてきた。感謝したい時には彼らはいない、読まれないかもしれないけれど「有難う皆さん、貴方達との出会いがあって今の私が存在します。皆さんが幸せでいますように。」

このシリーズはまだ続きますが、少し疲れているので時間がある時に気ままに掲載します。 ごめんね! THANK YOU!